「直感的」とはなんだろう(3)

もう半分は、コンピュータの中のデータは、必ずしも「モノ」として表現できるものばかりじゃない、ということなんだよね。正確に表現すると、「モノ」なんだけど、色々なカタチをとれる、というほうが正しいかな。

たとえば、本棚に本が並んでいる。これは、もうモノでしかない。ぼくたちが本を手にして、読んで、また本棚に戻す。本が増えたらどんどんわかりにくくなってしまうから、そしたら整理する。読む。また散らかるから整理する。単純単純。

でも、コンピュータの中では、こんなに単純ではありえない。またiTunesを例に出してみよう。iTunesの中には「曲」がいっぱいある。でも、その「曲」は、直接的に「モノ」を表しているわけじゃない。もちろん裏では「ファイル」という実体があるし、「ライブラリ」の中にある限りにおいては「モノ」とも言えるんだけど、実際は「モノ」のラベルみたいなもんだ。

これがどういう時に問題になるのかというと、たとえば、プレイリストを作ったとき。プレイリストの中にはいっぱいの曲がある。でも、プレイリストから「曲」を削除したからといって、モノまで消えるわけじゃない。また、プレイリストを作ったからといって「モノ」の場所が変わるわけでもない。あくまでも、整理のためのノートを書いたり消したりしているだけだ。それに「スマートプレイリスト」を使うともっと複雑なことになる。「スマートプレイリスト」は、「プレイリスト」というモノですらない。それは、「最近聴いた曲」とか「いままで1回も聴いたことがない曲」という条件に過ぎない。だから、「スマートプレイリスト」に対して曲を追加したり削除したり、ということは、「モノ」みたいには出来ない。

なんだか複雑になってきたけど、なにが言いたいかというと、コンピュータってのは自由だってことなんだよね。「モノ」はあるんだけど、モノを指し示すような「ラベル」は、現実とは違って殆ど無限のように作れるし、それぞれ見え方を変えることだって自由だ。これが、コンピュータにおけるすごく素晴らしい、とてつもなく強力な点であることは間違いがない。

けれどもその反面、コンピュータの中にあるものを「モノ」として扱うやり方とは、相容れない……とまではいわないけど、相容れにくい要素でもあって、ぼくたちの「直感」に、特に「ドラッグ&ドロップ」のように「モノ」として扱う直感に反してしまう部分もある。MacOSXが生まれるにあたって、昔のMacOSを使っていた人から一番反論というか反感が出ていた所は、ぼくはここだと思う。MacOSXは、出自はNeXTのOSで、ベースはUNIXだ。だから、NeXTが持っていたとっても強力なデザインを、つまり自由な部分を受け継いでいる。それは、デスクトップメタファという「モノ」に基づく考え方とは容易になじみにくい部分を持っていて、いまもまだ発展途上なんだと思う。