「直感的」とはなんだろう(2)

さて、いままでの部分では、「ドラッグ&ドロップ」を、「何処かから別の何処かに動かす」ということに対する直感的な操作だ、ということを前提にしてきた。しかし、これは本当のことなんだろうか?ここに、一番むずかしい問題が存在しているのだった。

この一連のエントリの最初で、Windowsにもドラッグ&ドロップは存在している、と書いた。でも、それは使いにくい、とも書いた。なぜかというと、Windowsにおけるドラッグ&ドロップは「一貫していない」からだ。つまり、同じようなことをやっているのに、別のことになってしまう、ということが起きてしまう。たしかに、見えているものが「モノ」なのであれば、ドラッグ&ドロップは直感的に見える(実は、マウスにおいてボタンを押したまま動かすという操作はあまりカンタンに習得できるものではないので、それほど直感的なものではないんだけど)。だけど、その「直感的な操作」というものは、行った操作に対して、実際に起きることが予測できなければ、とってもとってもストレスフルなものになってしまう。

なぜかといえば単純で、ぼくたちは同じことをすれば同じ結果が生まれると思っているからだ。ぼくたちが世界に対して何らかの働きかけをするとき、ぼくたちは常に、意識的にであれ無意識的にであれ、なにが起こるかを予測している。やったことと起こったことを対比しながら、物事を進めている。だから、やろうとしたことに対して、予測に反する動作をすることが、一番のストレス要素なんだ。これは、ある環境に慣れた人が、別の環境でストレスを感じてしまうのと全く同じことだ。

それがなんで、ドラッグ&ドロップの話につながるんだろうか。それは、この操作がとっても「汎用的」であるからなんだ。相手が「写真」だろうが「音楽」だろうが「文章」だろうが「ビデオ」だろうが、とにかく何がどうだろうが、「つかんで」「はなす」ことは出来るように思える。だから、「つかんで」「はなす」ことで何が起きるか、その操作体系に慣れてしまったら、一つの予想が出来上がってしまう。でも、コンピュータの上で実際に起こっていることはもっと複雑で、「つかんだときになにがおこるか」「はなしたときになにがおこるか」は、プログラムが決めている。そして、コンピュータの上には、あまりに多くの異なるデータがあって、送り元になるアプリケーションも、受け手になるアプリケーションもいっぱいある。だから、あるものを別のところに送るためには、とっても大変な努力が必要だ。もしも、自分の直感に反する、つまりその環境においての期待(約束事)を破るようなアプリケーションがあったら、この仕組みはうまくいかない。

だから、ドラッグ&ドロップという理想を実現するためには、送り元と受け手が、使う人の直感を実現するための、水面下のあまり直感的ではない努力をしないといけない。そして、いま現実にあるOSでは、MacでもWinでも、充分といえるレベルには至ってないように思う。

また、ドラッグ&ドロップは、送り元と受け手の間でどういう操作が行われるのかは、送り元と受け手のカンケイにかかっている。もしも受け手がネットワークの向こう側だったらその操作は「ネットワークの転送」になるだろうし、受け手が日記ページなら「貼り付け」に、受け手がゴミ箱なら「捨てる」という動作になる。よくできたアプリケーションならば、「ドラッグ&ドロップ」に対応した自然な動作が何になるのかは、考え抜かれているはずだ。なんだけれど、実は、なにが「自然」なのかはあまり直感的ではなくて、もはや作り手のセンスにかかっていたりする。このあたりも、ちゃんとやろうとすると、単に機能を実現するというだけではない、インタフェースに関する深い理解と直感が必要になる。大昔は、「果たしてファイルをゴミ箱に捨てるのはわかるけど、なんでメディア(その頃はフロッピーディスク)をゴミ箱に捨てるとejectなんだろう?直感的じゃないじゃん!」なんて問いだってあったんだ。いまのMacは、メディアを選んでドラッグすると、ゴミ箱は自動的に「イジェクト」のアイコンに変わる。ちゃんとそこにも歴史があるんだね。

これが、ドラッグ&ドロップの難しさの半分。