「直感的」とはなんだろう(1)

ドラッグ&ドロップは、実は、計算機を知っている人にとってはあまり直感的なものではない。昔なにも知らなかったころは、なんて直感的なんだろう、とか思っていたけれど、実際にドラッグ&ドロップを使ったプログラムを書いてみてびっくりした。あたりまえといえばあたりまえなんだけど、コンピュータの中にあるものは別に実際の「モノ」じゃない。だから、それを「モノ」として扱って、あっちからこっちへ「ぐいっ」と持って行くことは、普通に考えれば出来ないことなんだ。たとえば、Safariで写真サイトを開いているとき、写真をぐいっとつかんだらどうなるだろう。Macを使ってる人はためしたことがあると思うけれど、半透明な写真がマウスの下にでてきて、あたかも写真を本当に掴んで動かしているように見えるはず。何も考えなかったらこんなふうになるはずがない。Windows上のIE6で同じことをやったら、禁止マークのマウスカーソルになっちゃう。これはこれでちゃんと意味があるんだけど、Safariでの見え方とWindows上のIEには、明確な違いがある。そして、その違いはまさに「考え方の違い」を端的に表しているものなんだ。

もひとつ具体的な例を挙げてみる。iTunesのプレイリストの中で、曲を選んで曲順を入れ替えるときを考えよう。曲を選んでぐいっとドラッグしたら、まさにその行が浮き上がって動かせるように見える。そして、別の場所に置くと、さっと入れ替わる。実に当たり前のように見える。けれど、ぜんぜん当たり前じゃないよね、仕組みを知っていたら。昔よくあったのは、どこかに「上」とか「下」というボタンがあって、そのボタンを押すとどんどんリストが入れ替わる、というもの。リストというデータの順番を入れ替えるだけなら、こっちのほうが「自然」かもしれない。でも、いまやりたいこと、を基準にするなら、それはやっぱりなんだかおかしいように思える。

いやいやそうじゃないよ、とも言える。だって、裏側で動いているのはネットワークで、mixiというウェブサイトがあってそこは写真のアップロードという機能を提供してくれてるんだから、ヘタにそれを隠さないでよ、とかね。だいたい、仕組みが隠れれば隠れるほど、なにがどうなってるのかどんどん分からなくなるかもしれない。提供されている機能がちゃんと見えやすくて、さくさく使えるものにさえなっていれば、あとは自分でやるよ、というのもリッパな一つの見識だ。そして、Windowsはこの考え方を、これ以上ないくらいちゃんと(というのは、大きな失敗をしないで、ということだ)やってきた。これこそがWindowsの価値なんだ。みんながウィンドウを使いたいなら、きっちりウィンドウを使えるようにするよ。複数のアプリもちゃんと動くようになったよ。みんながウェブサイトを見たいなら、もちろんまかせろ。みんなが音声ファイルを再生したいなら聴けるようにするし、ビデオファイルを再生したいならもちろん出来るようにする。できないことなんてなーんにもない、だから、やりたいことをどうぞ何でもやってね。

20年たって、だいたい何でも出来るようになった。でも、そもそも何がやりたかったんだっけ?うん、やりたいことが分かっているならノープロブレム。ぼくもオタクのはしくれだから、Windowsじゃなければ出来ないことがいっぱいあることは知っている。というか、うちのMacにもParallelsの上にWindowsが入っていて、仕事と、あと、まあなんだ、そういうゲームのために使っているしね!

でも、なんだか、20年前の僕が欲しかったものはなんか違うものだったような気がした。そう、まだ出始めのMacの解説本や坂村健の「TRONを創る」なんかを読んだりした頃、そして、NeXTが日本に上陸したばかりの頃雑誌記事を読んで、上陸したばかりのできたてのハードをザコン館に見に行った頃の僕が欲しかったもの。だからぼくはいまMacを使っていて、まだなんか面白いことがありうるんじゃないか、とかそんな地に足が付かないことばかりを考えている。