美しさの定義

もう何年も前、ぼくがボロボロの修士論文を書いていた頃の話。

その頃のぼくは、とあるかなり規模が大きくちゃんと動いているプログラムを、その当時にモダンだとされていたとある言語で書き直すことで、どういった利益が得られるか、といったことをやっていた。まあ、たいしたことをやっていたわけじゃない。そんでもって、設計を中間発表で説明する際、「XXなので美しい」「YYなので美しい」と表現していた。

それに対して、とある教授から投げかけられた言葉が「美しさを定義せよ」だった。いまから考えれば当たり前のことだし、当時それが当たり前だと思えてなかった自分は失格としか言いようが無いんだけど、翻って考えてみるに、なんでこれが当たり前なのかは案外共有されていない気がする。

それは、定義されていないものは計測できないということ(あまりに当たり前すぎて赤面)。計測できないことは評価することもできず、評価できないということは改善することもできない。また、定義されて定義が共有されていないものは、人々の間できちんとその計測と評価を共有することもできない。

だから、それが工学的でありうる分野であるならば、やはり、「美しさ」もまた定義されなければならない。そうでなければ、「美しさ」を目指して驀進してしまった結果、なぜか醜悪の極致に至ってしまう可能性すらある。なぜなら、定義できていない以上、発生した変化が美しいかどうかは他人には共有されず、それどころか本人ですら往々にして混乱に陥ってしまうからなのだった。

にもかかわらず、もちろん、なぜか個々人の感受性の中には「美しさ」の基準というものは厳然として存在しているんだけどね。

まあ、そんなことを、「美しい国」を連発していた人の、どう見ても美しいとは思えない身の処し方を見て感じたのだった。だからといって、それが一概に悪いことだとは思わないけれど。良くも悪くもその人なりの美学を持ちそれに忠実だった前任者と比較して、彼はいったい何を考えているのか、ちょっと興味が出てきたのだった。