物理的フィードバックの重要性、あるいは真のiPod classic

しばらく手放していた初代iPodが久々に手元にもどってきて、昨日から今日にかけてしばしの間いじっていた。初代iPodを買ったのは2002年1月だから、このインタフェースに触れてからそろそろ丸6年くらいになる。この長いiPodの歴史の中で、初代iPodにしか無かった機能があって、それがまさに物理的に回るホイールなのだった。2002年7月に出た2世代目では既にタッチパッドの技術を利用したタッチホイールになっているので、このホイール機能は、発表時からだとわずか9ヶ月の命だった。まだiPodが大ブレイクする前だから、もはや、そもそもホイールが物理的に回転していたなんて知ってる人のほうが少数派だろう。無かったことになっているといってもいい。しかし、やはり初代iPodのインタフェースは、以降のiPodにはない、初代にしかないその味わいがある。

単に操作体系という意味では、2代目以降のiPodは、実に初代iPodのホイールの感覚を再現している。3代目こそ4列タッチボタンというミスを犯したものの、それを除けば一貫してiPodはホイールを中心とした操作体系を構築していて、そこにおいて、まさにiPodiPodたるアイデンティティを構築していたのだった。にもかかわらず、なぜ初代にこだわるのかというと、それはまちがいなく、物理的にくるくる回るといったところでの肌触り感にしか無いものがあるからだ。

どれくらいの速度で回すとどう動くのが自然か、どれくらいの勢いで回すとどれくらいの慣性が発生するか、こういったことはソフトウェアでもエミュレーションは可能であるし、視覚や聴覚を通してフィードバックが可能である。実際touchのスクロールではそのあたりの慣性がソフトウェアでエミュレーションされていて、快適な操作を形作っている。しかし、なにせ初代iPodのホイールにはなによりも実際に動くものの慣性があったのだった。実際にホイールがスムーズに回り、またある程度の速度をかけると慣性で自動的に回る。そしてそれらは実際にホイールの動きで物理的に人間にフィードバックされる。この打てば響く関係は、以降のiPodが失ってしまったものであり、単に失われたままにするにはもったいないものだったように思う。

もちろん、この物理的に回るホイールを廃したことは、iPodがメジャーになるにあたっては必然的なものだった。このデバイスはあまりに故障しやすいように思われたし(実際手元にあるこれも、多少スムーズに回らなくなってきている。まあ、6年前のものがそれなりにちゃんと動いていること自体たいしたものではあるが)、サイズも大きかった。初代と2代目のiPodはひいき目に見てもかなり大きいデバイスであり、いまのiPodからは想像できないサイズである。ありもののデバイスを使って立ち上げなければならなかった初代だったからこそ許されたものだと言えるだろう。

しかし、iPodが拡散しつつある今ならどうだろう。classicなiPodのラインはiPod nanoのラインにゆるやかに吸収されていくはずだ。ハイエンドはiPod touchに、カジュアルなモデルはiPod nanoに。そして、その中にclassicなiPodのラインが残る余地はない。しかし、いまの名ばかりをclassicとしたiPodではない、真にclassicと名乗るモデルがありうるのであれば、そのモデルは残る必然性があるのではないか。そしてそれにはこの物理的フィードバックを持つ初代のホイールの進化形が載っているべきだ、そんなことを思ったりもするのである。そこにはやはり、単なる懐古主義ではない、形態が正しく機能に従うべきであるという必然性が、あるように思われる。